ミッションウィークⅡ「一粒の麦」教諭 松尾 朋香
今日は、「一粒の麦」という聖書の言葉についてお話ししたいと思います。実はこの言葉は、私にとって特別な言葉です。私が初めてキリスト教に触れたのは、9年前、高校の入学式の日でした。その日、シスターからいただいた言葉が今回のタイトルでもある「一粒の麦」でした。聖書の「ヨハネによる福音書」第12章24節には、次のように書かれています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」高校生だった当時の私は、この言葉の意味を十分に理解していたわけではありません。年を重ね、自分の人生を振り返るたびに、この言葉の意味を少しずつ考えるようになりました。
その中で思い出すのが、小学4年生の時の経験です。私は父の転勤で、横浜市から名古屋市へ転校しました。それまで過ごしていた横浜には祖父母が近くにいて、仲の良い友達がいて、大好きな学校がありました。転校が決まった時は、とても寂しく、不安な気持ちでいっぱいでした。それでも、新しい学校へ行けば何とかなるだろうと思っていました。しかし実際には、文化や言葉の違いに戸惑い、なかなか周囲になじめませんでした。友達との会話についていけなかったり、自分だけが違うように感じたりして、次第に学校へ行けなくなりました。当時の私は、「どうして自分だけがこんな思いをしなければならないのだろう」と考えていました。その経験にどんな意味があるのかも分かりませんでしたし、先のことなど全く見えませんでした。けれども今振り返ってみると、その経験は決して無意味ではなかったと思います。あの時の不安や孤独を経験したからこそ、人の痛みや悩みに少し敏感になれた気がします。そして教員となった今、新しい環境に戸惑っている生徒や、教室の中で居場所を見つけられずにいる生徒の気持ちを想像しようとする原点にもなっています。
また、高校卒業後には第一志望の大学へ進学が叶わなかったこともあります。当時は悔しく、目の前が真っ暗になった気がしました。しかし今振り返ってみると、その経験もまた今の自分につながっています。もし第一志望の大学に進学していたら、社会科の教員免許を取得することはできませんでした。そして教員になることも、この海星に勤務することも、ここにいる皆さんと出会うこともなかったかもしれません。一粒の麦も、土の中にまかれた時には、その先に何が待っているのか分かりません。暗い土の中に埋もれてしまったように感じるかもしれません。しかし、その時間を経て芽を出し、やがて多くの実を結びます。私たちの人生には、自分の思い通りにならないことが沢山あります。できることなら、悲しいことや苦しいことは経験したくないものです。ただ、今の私は、転校したことも、学校へ行けなくなったことも、第一志望の大学に進めなかったことも、すべてが今の自分をつくる大切な経験だったと思っています。楽しかった出来事や成功体験だけではなく、悲しみや苦しみ、失敗や挫折もまた、私たちを成長させてくれるものです。そして、人の痛みに気づき、人に優しくする力を育ててくれるのだと思います。だからこそ、今もし苦しい思いをしている人がいるなら、その経験も決して無駄ではないということを覚えていてほしいと思います。今は意味が分からなくても、いつか振り返った時に「あの経験があったから今の自分がある」と思える日が来るかもしれません。
最後に、私はキリスト教の学校で学び、働く中で感じていることがあります。それは、聖書の言葉は決して遠い昔の特別な人たちのための言葉ではなく、私たちの日々の生活と深くつながっているということです。私自身、高校生の時に「一粒の麦」という言葉に出会いましたが、その意味を本当に理解できるようになったのは、つい最近のことです。様々な経験、そして教員として多くの人と出会う中で、「この言葉は私の人生にも当てはまるのだ」と感じるようになりました。皆さんの中には、私と同じようにキリスト教に特別な関わりがない人もいると思います。それでも、校内で聞く聖書のみ言葉を、自分には関係のないものだと思わずに、一度立ち止まって考えてみてほしいのです。今は意味が分からなくても、何年後かにふとその言葉を思い出し、自分の人生と重なる瞬間が来るかもしれません。私にとっての「一粒の麦」がそうであったように、皆さんにとっても心に残る言葉との出会いが与えられることを願ってお話を終わりたいと思います 。

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